Story: 06

前は本当に日本語を見るのも嫌でした

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20歳(インタビュー時)

日本で生まれ、小学校2年生のときに父親の仕事の都合でアメリカに引っ越す。8年生のときに補習校で学ぶ。現地の高校卒業後に帰国し、都内の大学に通っている。

アメリカへ ― 別扱いというのはあったと思います。

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日本で生まれて、小学2年の初めに父の仕事の関係でアメリカに行きました。どれだけ長くいるかは知らなくて、気づいたら9年間アメリカにいた、みたいな。アメリカ東海岸で空港から車で4時間。アジア人もほとんどいないし、日本人は本当に1人もいないような所でした。大学が1つあるのと、工場みたいなものと、あとは大きな病院が1つだけあって、それ以外は本当に畑とか小さなお店ぐらいしかない。小学校のすぐ隣は牧場でスクールバスから牛が草を食んでいるのが見えました。他の帰国子女の子たちと話すと、「え、そんな所いたの」みたいな話になることはあります。

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そんな中でアメリカ生活が始まって、どうでした?

現地校にいきなり入って、あまりにも先生とのコミュニケーションが取れなくて、先生もどうしたらいいか分からないので、ぬり絵の本とクレヨンみたいなのを渡されて。教室にはいるけど、なんかすごい、なんだろう、浮くってレベルじゃなく、もう別扱いされていました。

周りに外国人がいなくて、ESLの教育も十分ではありませんでした。とてもいいESLの先生が隣の学校区にいて、充実したESL教育が受けられると聞き、1年後、そちらに引っ越しました。学校ではESLを2年受けました。また、週3回、大学生の家庭教師をつけ、3年ほど家でも英語の勉強を続けました。

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じゃあ、最初のほうはつらい記憶があるってこと?

はい、最初は学校に行っても周りと話せず、それこそ「トイレに行っていいですか」みたいなのも全部フラッシュカードで先生に伝える感じでした。引っ越した地域も外国人が珍しかったため、英語ができるのが当たり前という前提で。見た目というよりも、英語が分からないことで、差別まではいかないものの、別扱いというのはあったと思います。でも、英語が追いついてからは、授業にも普通に参加できました。それまで日本では体操などもやっていたので、体を動かすことは得意で、遊びを通じて友達も増えていったと思います。

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なるほど。じゃあ、周りと馴染んでる感じになってきたのは、アメリカに行ってから数年経った頃ですか。

アメリカ育ちと思われるようになったのは、5年生ぐらいの時です。でも、学校自体には半年経たないうちに馴染んでいました。担任の先生も、とても親切にしてくれたので。

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日本語のほうは、どうしてたんですか。

なるべく早く現地校の生徒に追いつこうと英語学習を優先していたので、日本語はずっと放置だったと思います。でも、小学校と中学校のときは帰国子女財団の通信教育を取っていたみたいです。

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「みたい」。(笑)

小学校のときは親にやらされたりはしたのですが、どうしてもついていけなくなって。最初の頃は作文とかも書いて提出していたのですが、その後は全然やっていません。中学校卒業までその通信教育の教材を取り続けてもらっていたのも知らなかったぐらいです。

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体験入学 ― 課題はみんなと一緒に出したいし、授業も普通に参加したい。

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小学3年から小学5年は、夏休みの一時帰国のたび、祖母のうちの近くの小学校に体験入学で通いました。

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どうでした? 体験入学の経験は。もともと通ってた小学校とは別の学校かな。

はい、違う学校です。でも、毎年同じ担任で、私の事情も配慮していただきました。

3年生のときは授業についていくのも困らなかったので楽しかったのですけれど、5年生では、英語のほうが日本語よりできていて、修学旅行の後に提出する作文でも、結構苦労しました。当たり前のようなことができなくなっていて、だんだん他の生徒とのギャップができているのは感じていました。

6年生のときはアメリカ内で引っ越しをし、夏休みのタイミングが合わなかったこともあり、体験入学には行きませんでした。でも、行っていたとしてもとても苦労していたと思います。先生は理解してくださっているといっても、私としては、課題はみんなと一緒に出したいし、授業も普通に参加したい。成績は残らないといっても、一応全部解かなきゃいけないじゃないですか。そのときに漢字が書けないとか、そういうのは嫌な時間、つらい思い出にはなっていたと思います。

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そっか。じゃあ、友達と遊んだりするのはいいけれど、授業のそういう時間はちょっと嫌だなっていう感じかな。

日本の給食とか掃除の時間はすごくいいなと思っていました。普通のことをクラスメートとする時間がたくさんあって楽しかったです。

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アメリカ国内で引っ越し、補習校に ― 本当に日本語を見るのも嫌でした。

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補習校に13歳から14歳まで通っていたということですが。

はい。中学生になってニューヨーク近郊に引っ越し、2年弱補習校に通いました。

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そのとき補習校に入ったのは、何か理由があったんですか。親御さんの意向で?

そう、私が入りたいとは言った覚えはないので(笑)。「行ってみる?」みたいな話で始めたっていうのと、日本人の友達も今まで周りにいなかったので、日本人に会うチャンスでもあるのかな、みたいなことで行ったのだと思います。

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補習校はどんな感じだったか覚えてますか。

覚えています。補習校は土曜日なのですが、毎週、金曜日の夜になってから補習校の宿題を始めて、土曜の朝の登校中の車の中でわからないところを教えてもらって、嫌々行っていました。でも、教室ではみんなのびのびとしていて、小学校からずっと一緒に通い続けてきた生徒もいたので、とても仲良くて先生ともフレンドリーでした。文化祭や運動会など、日本の学校行事なども楽しみました。

でも、休み時間には私は現地校の宿題をしていました。というのも、私の引越し先の現地校は前の学校とは違ってレベルが高く、課題が殊に多いことでも有名で、ついていくのだけでも目一杯だったからです。

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補習校の授業の合間に現地校の宿題をやってた。

そうですね。補習校の授業や課題は時が過ぎるのを待てば終わりますが、現地校の課題のしめきりは厳しく、待ってくれませんので。補習校の授業中でも、現地校の課題で次に何をしなければならないか考えていました。

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補習校の勉強はどうでしたか。

補習校は学年別のクラスだったので、中1に入りました。宿題はとにかく終わらせるようにはしていましたが、自分の中ではついていけていると感じられませんでした。

当時は、その後何年アメリカにいるか決まっていなかったので、もしかすると日本の高校受験をしなければないかもと親から聞かされていました。渡米したばかりの子たちとは同じレベルに日本語の勉強ができないと分かっていても、私もそのレベルに持っていかなくてはというプレッシャーはあったと思います。

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帰国するかどうかっていう予定がはっきりしてなかったんですね。日本の高校を受験しないといけないかもしれないし、でも、もうちょっとアメリカいるかもしれない。

そうですね。どのタイミングで帰るのか分からないので。日本語で高校の授業についていくには、日本語力が足らず、英語対応の国際高校は数校に限られるので、できれば現地校の成績も落とすなって言われていました。

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その状況、結構つらくなかったですか。聞いてると、大変だなって思うんですけど。

そうですね。補習校は楽しくはありませんでした。課題も大変だし、日本語力も上がっているかわからないし。今でこそ大学で日本語の授業を受けてきて、それほど抵抗というか嫌だって感じはないのですけれど、前は本当に日本語を見るのも嫌でした。

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何がそんなに嫌だったんですか。

まずは、まとまった文章が読めなかったってことだと思います。見たこともない漢字や熟語が散りばめられた文章に、ふりがなをつけて音読してみても、音読が目一杯で情報として頭に入ってきません。日本語で考える習慣もついていなかったので、そもそも日本語の文章が読めた場合も、英語に切り替えないとイメージが膨らまなく、味気なかったです。

また、今までの努力が足りていないから今の困った状態になっているという後悔と、どんどん追いつかなくなっているという事実に向き合うのが辛く、将来が描けないことでも不安でした。

補習校の教材は次々と変わっていくので、できなかったことができるようになったという達成感や宿題もやった分の実力が身に付いているという実感がなかったことだと思います。いつまでも続く報われない努力のような。

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確かに、やっても、それが返ってこないとやる気なくしちゃいますよね。補習校は1年間通って辞めたってことですか。それは高校の勉強を優先させるため?

高校の勉強もありましたが、高校から始めたマーチングバンドの週末練習もあり、そのために時間が欲しいということもありました。補習校も、ついていけないなら意味がないのではないかと思い始めたタイミングだったと思います。

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やめたときってどんな気持ちでした?

とてもほっとしました。初めて「ああ、やっと集中しなきゃいけないことに集中できるようになった」みたいな感覚でしたね、そのときは。

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集中しないといけないことっていうのは、現地校の勉強?

そうです。私、現地校の勉強や課外活動に全力で取り組めていないと不満にも感じていたし、補習校では、居場所があるような、ないような感じもしていたので。

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居場所があるようでないような感じっていうと?

補習校の生徒は大きく分けて、2つのタイプがいました。まず、両親は日本人、あるいは日本人のハーフだけどアメリカ育ちで、家族とも英語、これからもずっとアメリカにいると思っている人。それと、いわゆる帰国子女で、アメリカに来てからの期間も短く、数年後には日本に帰ることがわかっていて、話題も日本の芸能界や受験という人。

私自身は、ずっとアメリカにはいないのだろなというのは頭ではわかっていましたが、現地で育った期間が長く意識も現地育ちに近かったと思います。一方で、将来の方向性は帰国子女と同じように日本でと考えていて、自分と同じようなバックグラウンドの人がいなかったため、相談相手がいないと感じていました。

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日本の大学と卒業後の進路 ― 今は英語が使える企業を探しています。

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高校を卒業して、大学は日本に戻ってきたんですね。

はい。私が10年生のときに父の帰国が決まり、私自身は11年生までで早期卒業して帰国することになりました。私は元々、高校のコンペティティブな競争のような環境が好きではなかったので、日本の大学に行ったら、現地校の友達とも争わなくていいのかなっていうのはありました。

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なるほどね。日本の大学に行くんだったら、そもそも周りとゴールが違うから競争する必要はないって感じ?

それはあったと思います。10年生が終わり、11年生になる前の夏休みに、日本の大学の英語プログラムのオープンキャンパスにたくさん行って、そこで日本の大学に関心を持ちました。

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大学を卒業した後は、どういう進路に進もうって考えてるんですか。

日本にいたいと思いますが、日本の企業に勤めるには日本語のレベルを上げないと難しいと思っているので、今は英語を活かすことができる企業を探しています。

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やっぱり日本がいいですか。

うーん、私が見てきたアメリカが極端過ぎるのだと思うのですけれど、すごくのんびりした田舎か、競争社会っていう。改めてアメリカに戻ったら、とてもすてきな点もあると思います。ただ、日本のことをまだあまりよく知らないので、しばらく日本で暮らし、勤め先も家族がいる日本でと考えています。

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