Story: 04

母や父と話すときは、今も一番最初に出てくるのは日本語です。

M

19歳(インタビュー時)

東京生まれ。父親の仕事の都合で2歳のときにバンクーバー(カナダ)に引っ越す。小学3年生の時にジャカルタ(インドネシア)に移り、日本人学校を経て、フランス系インターナショナル・スクールに。週末は補習校に通う。その後、中3から高3までモントリオール(カナダ)で過ごす。現在は都内の大学に通っている。

東京からカナダへ ― 母や父と話すときは、今も一番最初に出てくるのは日本語です。

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2歳まで東京に住んでいて、その後すぐに父の仕事関係でバンクーバーに引っ越しました。でも、そのときの記憶は本当にないですね。ちょうどキンダーガーデンから小学1年生の記憶は結構残ってるんですけれども。

小学1年生は初めて学校に通う時期なんで、私もすごいどきどきしてたの覚えてます。当時はまだ英語も片言だったんで、なじめるかなっていう心配があったんですけれども、バンクーバーは結構アジア人が多かったんで、そういうコミュニティーもちゃんとありつつ、気楽に過ごせたかなって。

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ご両親とも日本人ということなので、うちの中では日本語で話していたっていう感じ?

そうですね。やっぱり海外に住んでると、外に出た途端、英語かインドネシア語、フランス語にすぐ切り替わるんです。だから、家庭内では日本語を頑張って使おうっていう感じで、家でも小さいときから日本の絵本とかを読んだり、日本昔話とかを読んだり、子守歌とかを聞かされてたりしました。そういう意味では日本の文化に少しずつ触れさせてもらってたかなと思います。やっぱりどうしても海外で育つと、子どもって自分の母国語を忘れる傾向があるので、忘れさせたくないなっていう気持ちが両親にはあったみたいなので、家庭内では日本語を使ってました。それが自然で、やっぱり母や父と話すときは、今も一番最初に出てくるのは日本語です。

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公文に通う ― ああ、公文やんなきゃ。みたいな。

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じゃあ、家の外では英語で家では日本語で?

はい。あ、でも6歳から公文を始めて、週に1回通ってました。公文では算数と国語をやってました。英語は外で使えたり学んだりできるので、両親は漢字の基本とかを覚えてもらいたかったみたいで。なので、小学1年生と2年生の漢字は公文で学びました。

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そうなんですか。公文はどうでした?

公文はあまり好きじゃなかったです。フフフ。毎日やらなきゃいけないっていう、定期的なスケジュールを立てられるじゃないですか、公文は。で、1日でも勉強し忘れると、その分、次の日は倍になるんで、それが本当に嫌で。もう、毎日「ああ、公文やんなきゃ」みたいな。で、やっと終わると、「あ、でも明日もあるんだなあ」っていうのがあって。そこがあまり好きじゃなかったんですけれども、でも、今振り返ってみると、すごく分かりやすかったし、漢字をちゃんと覚えられました。

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バンクーバーだったら、補習校とか日本語学校とかもあると思うんですけど、そういうところじゃなくて、公文にしたのはどうしてなんだろう。

当時、母は海外に補習校があるっていうのを知らなかったそうで、とりあえずバンクーバーにもあるのを知ってる公文に入れたんだと思います。

あとは公文に加えて、日本からドリルとか教材とかも買っていってたんで、漢字の練習とかドリルとかでやってたのも覚えてます。1日何ページっていうのもありましたし、結構厳しかったです。

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日本人との付き合いとか、その頃の友達関係はどんな感じでしたか。

実はバンクーバーでは純日本人の友だちは本当に1人くらいしかいなくて。それも母の友達の子どもがたまたま私と同じ年だったりしたっていうので、現地校で日本人の友達がいたっていうわけではなくて、本当に日本人との関わりは少なかったです。

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小3でジャカルタへ ― 本当にもう日本の小学校がジャカルタにあった感じでした。

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小学3年生のときにジャカルタに行って、そこでは日本人学校に行ったんですね。

はい。ジャカルタは日本人がすごく多くて、ちゃんと何年何組っていうのもできていましたし、先生方もみんな日本人だったし。あと、制服はなかったんですけれども、ちゃんと上履きを履き替えるっていう。本当にもう日本の小学校がジャカルタにあった感じでした。

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へえ。カナダの現地校から日本人学校に行ったとき、どんな感じでした?

最初は本当にカルチャーショックというか、いや、カルチャーショックっていうよりも、全く違う国に引っ越したのもありますし、学校の環境とかシステムとかルールとかも一つ一つ全く違ったので、最初は本当に難しかったのは覚えてます。例えば、小学校はちゃんとスニーカーで行かなきゃいけないっていうルールがあって。オープントゥ(つま先が開いている履物)とかサンダルでは絶対に行っちゃいけないっていうルールがあったんですけれども、今まで普通にカナダでは履いていけたんで、なんでだろうなっていうのもありましたし、上履きを忘れたっていうのも何回もありました。 あと、小学生はみんな毎週水曜日の朝に自分の教室の掃除をするんですよ。そういうのも私たちがやんなきゃいけないのかなと思ったり。本当にもうシステムとかルールが完全に違かったんで、結構ショックだったのを覚えてます。

あと先生もすごい厳しかったのは覚えてます。怒ると言葉づかいがすごく荒くなったり。「この野郎」とか普通に使うような。たまたま私の先生が怖い先生だったのかもしれないですけれども、そういうのもあって、「あ、こういう言葉づかいしていいんだ」って不思議に思ってたり。あと、例えばミズキちゃんっていう友達がいるじゃないですか。私はちゃん付けとか、さん付けとか慣れてなかったんで、ミズキって呼んだりすると、「呼び捨てしないでよ」って言われたり。呼び捨てっていう意味も分からないまま「そうか、『さん』を付けなきゃいけないのか」っていうのも結構いろいろ分からなくて。なので、そこは結構「あー、こんなストリクトなルールがあるんだな」って私は感じました。「これ慣れるのかな」とかって思ってたのは覚えてます。

違うけどしょうがないなって思ってたんですけども、インターに行けるなら行きたいなっていうのはあったと思います。なので、親が「インターに行く?」て提案してくれたときに、私はすぐ行くって言いました。すぐそれに乗りました。

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インターナショナルスクールに転校 ― 私は英語じゃなくて違う言葉を学びたいなってすごい、その年で思っていて。

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親御さんはそんな様子を見てて、インターを提案したのかな。

多分、そうですね。あと、英語も忘れちゃう心配があったんだと思います。なので、インターに入れてメインの勉強は英語だったりフランス語で行われて、日本語は補習校でも公文でも続けられるからいいかなって思ってくれたんだと思います。

でも、インターって言っても、インドネシアっていろんなインターがあって、ドイツのインターとかフランスのインターとかイギリスのインターとか。私は英語じゃなくて違う言葉を学びたいなって、その年で思っていて。で、親に伝えてたんですけれども、そんなシリアスに聞いててくれてたと思っていなくて。でも、そのときに「ドイツのインターかフランスのインター、どっちか行けるけど学びたいのある?」て言われて、カナダは英語とフランス語どっちも使う国なんで、フランス語を学びたいなと思ったので、フレンチスクールに入りました。

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じゃあ、Mさんにとってはまた新しい言葉だったってこと?

もう、新しい言葉でした。一言も分からないまま初日行ったのは覚えてます。フフ。今、振り返ってみるとよくできたなって本当思うんですけれども。「いつかはしゃべれるようになるか」みたいな感じで、そんなに重く考えないで入りましたね。

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どうだった?それでいつかはしゃべれるようになった?

なりました、なりました。もう全部フランス語なので、これは本当にちゃんと勉強しなきゃなって思って、1、2年いたら、しゃべれるようになりました。私ほどフランス語しゃべれない子はいなかったんですけれども、ネイティブレベルではないっていう子だったり、ハーフとかも結構いたので、フランス語の文法を1から学ぶ教室がちゃんとありました。それを週2回くらい放課後に受けてました。

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やっぱりフランスに関係がある子が多かったの?

はい。必ずハーフだったり、フランスに住んでいたことがあったりとかっていう人でした。日本人は学校全体では多分3、4人いたと思います。それもフランス人と日本人のハーフの子だったんで、純日本人っていうのは本当にいなかったです。でも、友達作るのも難しくなかったし、いろんな人種の人もいたんで、純日本人であったことはそんなに気にしなかったです。

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補習校へ ― 全然嫌ではなかったです。

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じゃあそういうクラスを放課後に受けつつ、メインのクラスはフランス語でやって、週末が補習校かな。補習校はどうでしたか。

メインがインターで、でも日本語学びたいっていう子どもたちが補習校に集まってて、その子たちと同じ目標を持った感じだったんで、全然嫌ではなかったです。みんな自分のペースでやっていける感じだったんで。

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自分のペースでっていうのは?

1つのクラスに生徒の人数がそんなに多くなくて、20人から25人ぐらいだったんで、先生に聞きたいことがあれば気軽に聞けたっていうのもあるし、週に1回なので習い事とか他にしたかったら全然できたっていうのもありますし、1週間あれば自分でも勉強したい時間、したくない時間が調整できるから、そこはすごい良かったと思います。

あと、すごくカジュアルな感じだったんで、先生ともすごく仲良くやっていけたのもありますし。先生と生徒の距離感っていうのはそれほど離れてなかった。どこからどこまでも100パーセント日本の小学校をこっちに持ってきたみたいな感じじゃなくて、基本の読み書きの勉強をフレキシブルに学んでほしいっていう感じだと思います。

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じゃあ、リラックスしてたんだ。

はい。でも、小学校4年、5年のときはよかったんですけれども、教材とかが本当にどんどん難しくなってったのもありますし、学校でもやることがすごい、いっぱいあったんで、そこは本当にバランス取るのが大変でした。日本語学びたくないっていうのはなかったんですけれども、補習校行ってなかったら勉強のストレスはちょっと減少してたかなって思ったりはしました。勉強難しくなったのは覚えてます、すごく。

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そうか。やめたいと思ったことはある?

やめたいっていうほどではなかったです。そこでも自分のコミュニティーっていうか友達とかもできていましたし。それに、家庭内で日本語を使っていても、外に出ると完全に英語だったりフランス語だったりインドネシア語になってしまってたので、日本語を使いたいっていう気持ちはすごいありました。日本語を使うと、何だろう。結構、日本語下手なんですけれども、使ってて心地いいなっていうのありました。

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へー。心地いいなっていうのは、どんな気持ちなんだろう。

やっぱ家庭内で使ってるっていうのもあります。両親としゃべるときは日本語っていうベースがあったので、それを使うと、なんか心地いいっていうか、日本語使うのが恋しくなるっていうのありました。家族とコミュニケートするときは完全に日本語なので、他の人とその言葉でコミュニケートすると安心するっていう気持ちはありました。

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補習校はいつまで通ってたの?

でも、そんなに長くいなかったと思います。たぶん中1くらいまでだと思います。それ以上はインターの勉強に集中したいなっていうのもありましたし、少し後にモントリオールに引っ越すことが決まってたので、「あー、もういっか」みたいな感じでやめました。ベーシックな日本語は身についたので、まあいいかなっていうのはありました。

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なんか聞いてると、あっさりやめた感じがしたんだけど。笑

あっさり。笑 いえ、そんなあっさりっていう感じではなかったんですけども、この先日本語に触れる機会は絶対あるなとか、あったらいいなっていうのも当時は思ってたんで、別に最終的なグッバイではないなと思ったんで、別にいいかなって思いました。親もやめていいよって感じではなかったんですけれども、現地の勉強に集中したいからってことをちゃんと伝えたら、そこはOKっていう感じでした。

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ちゃんと親御さんに伝えたんですね。

そうですね。ただやめたいって言ったら、そこはちょっと駄目だったと思うんで。

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再びカナダへ ― 私がやりたいなって言うと、やらせてくれてたんで、すごくありがたいですね。

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モントリオールに行ってからは、補習校行ったり、何か特別に日本語を習ったりとかそういうことはしてなかった?

してなかったです。モントリオールでは現地校で英語学んで、日常生活でフランス語使ったりしてたんで、日本語を正式に勉強するっていう感じではなかったです。でも、家庭内では日本語を使い続けてました。口喧嘩になると日本語ではどうしても負けちゃうんで、英語に切り替わったりするんですけれども。あと、難しい内容をどうしても説明したいっていうときは、英語になったりするんですけども、本当に90パーセント、基本は日本語ですね。

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学校は現地校ですか。

はい、そうです。モントリオールはフランス語州で英語かフランス語っていう選択肢はあったんですけれども、英語のハイスクール、普通の現地校に行きました。最終的には英語の大学に行きたいっていうのがあったんで、英語を一生懸命磨いて大学でも英語でやっていけるようにしたいなって。だから、ここで英語に切り替えてもいいかなって思って、英語の学校に行きました。

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へー。話を聞いてると、小さいときから自分の意思というか、こうしたいっていうのを結構ちゃんと言ってたし、親御さんも「いいよ」って感じだったんだね。

そうですね。そこはすごく感謝ですね。語学じゃなくても、学校の外でやるアクティビティとかスポーツだったり音楽だったりしても、私がやりたいなって言うと、やらせてくれてたので、すごくありがたいですね。

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東京大学に進学 ― ロジックっていうよりも心から思ったので、戻ってくることにしました。

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今は東京大学のPEAK(英語で学位を取るプログラム)に通っていますが。

大学はカナダに行って、行きたかったらマスターズ行って、そのままカナダで就職するっていう、もう本当にストレートなプランが私の中ではあって、カナダの大学にもいくつかアプライをしましたし、カナダで第1志望の大学にも受かってたんです。でも、もう本当にそこにしようって思ってたときに日本の大学でそういう国際プログラムに入れるっていうのを知りました。それを知ったときは、もうすぐに日本に来たいっていうのはありました。

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へー。そんなに来たかったんだ。

来たかったですね。大学生だからこそ行ける機会だなと思ったので。人生の最初の2年間以来、日本に住んだことがなくて、毎年夏休みには帰国してたんですけれども、それ以外に日本の文化に触れることとか、長期的に親以外の人と日本語で接するっていうことが、本当にめったになくて。もちろん英語で勉強し続けたいなっていう気持ちがあったので、東京大学にPEAKのプログラムがあるって知ったときに、「あ、これはもう行かざるを得ないな」と思いました。

あと、私も国籍は日本人で両親も2人とも日本人なので、日本語をちゃんと使いながら仕事ができるようになれるといいなっていう気持ちもありまして。やっぱり環境ってすごい大きいって思ってて、日本に来て実際に日本の世界でアルバイトだったり勉強したりしたら、少しずつ身に付くかなって思って。

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やっぱり仕事で日本語を使いたいと思いますか。

使いたいですね。せっかく日本の家族に生まれてきても、日本語を全く勉強しないで中途半端なレベルで終わらせてしまうと、会話では使えても100%のポテンシャルまで生かせないなっていう気持ちがあったので。何ですかね、日本人の、その気持ちが結構高まって勉強してみたいなって本当に思いました。海外に長く住んでると、自分のアイデンティティーじゃないですけれども、そこにまたつながりたいなっていうのが結構あったので。

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そういう気持ちって、いつぐらいから出てきたんですか。

そうですね。小さい頃はカナダに住んでたので、中身は100%カナダ人みたいな感覚だったんです。それでも全然いいなって思ってたんですけれども、夏休みに一時帰国したときに親戚とかに「Mはもう本当にカナダ人なんだね。考え方も人との接し方もやっぱり育った環境に染められるんだね」みたいな感じでいつも言われてて。でも、一応日本の価値観とか文化とかには興味があるし、本当に知っておきたいな、日本人なのになっていうのもあって、そういう小さい出来事が重なっていって、15,16歳ぐらいから色々そういうのを考えだしたんですよ。なので、大学を通して日本に1回戻ってこれるっていう選択肢を知ったときに、「あ、これは戻りたいな」って本当にロジックっていうよりも心から思ったので、戻ってくることにしました。

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大学卒業後の進路 ― 地球のどこでもいい

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大学を卒業した後はどんなプランがありますか。

今は卒業後は大学院に行きたいっていう気持ちはあるんですけれども、それがカナダっていうわけではなくて、本当に自分の勉強したいことを専門とする大学院を地球のどこでもいいので、いいなって思う大学院を探していきたいと思ってます。今はリサーチ中ですね、そこらへんは。

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どんなことが勉強したいっていうのは、決まってるんですか。

人権とかにすごく興味がありまして、あとは国際法とか国際関係とか、そこらへんに少しずつ触れていきたいなあと思ってるので、そういう道に進みたいなと思ってます。2カ月前くらいに国際人道法っていうフィールドの模擬裁判みたいな大会をやったんですよ。それで初めて国際人道法だったり国際法に触れて、「本当に興味深いな。こういうのを勉強していきたいな」っていう気持ちが大きくなってきたので、そういう勉強がしたいと思っています。

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