Story: 11

曾祖母が生まれた場所ってどんなところだったんだろう

金城

20代後半(インタビュー時)

ボリビアのオキナワ移住地で生まれ育つ。現在は日本で暮らし、沖縄県内の琉球料理屋で調理師として働いている。

プロフィールー4歳ぐらいまで日本語をしゃべらなかったらしいです。

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金城さんはボリビアで生まれ育ったんですか。 

はい、そうです。オキナワ移住地で生まれて、中学校卒業まで暮らしていました。父が現地のボリビア人、母が日系2世ということで家ではずっとスペイン語で育ってきて、4歳ぐらいまで日本語をしゃべらなかったらしいです。それで祖母が日本のビデオテープを1本もらってきて、それをずっと見ているうちに、日本語をしゃべるようになったって聞きました。たしか、しまじろうのビデオだったと思います。それから日本語学校に通い出して、中学卒業までそこで勉強しました。

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日本語学校はどんなところだったんですか。

僕たちの世代は、移住地に住んでる子どもはほとんどみんな行っていて、僕も気づいたら行ってました。今は通わない子たちもいるみたいですけど。朝はボリビアの普通の学校みたいに体育とか音楽とか英語とかの教科をスペイン語で習って、午後は日本語、国語をメインに習ってました。その他はクラブ活動や委員会活動もありました。たぶん日本語学校じゃない他のボリビアの学校では、委員会とかはないと思うんですけど。

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日本語学校だから日本の学校と同じようにしているんですね。

はい、そうだと思います。

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日本語学校での小中学校時代-日本に憧れがあって、行きたいなって思ってました。

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学校はどうでしたか。

勉強はあまり得意ではありませんでした。遊びを全力でやって、そこそこやんちゃな中学生生活をしてました(笑)。でも、漢字を書くのとか覚えるのとかはずっと好きで、当時は漢字の勉強で一番になりたいというのがモチベーションになってました。

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日本語のなかで特に漢字が好きだったんですか。それとも日本語の勉強が全般的に好きだったんですか。

日本語全般です。読むのも漢字も好きでした。作文はあまり得意ではなかったですけど、嫌いではなかったですし。

中学生ぐらいからは当時の日本語能力試験1級を取りたいと思って、そのための勉強もしていました。最初は日本語能力試験は授業の一環としてやってたんです。それで2級まではほとんどの人が合格できたんですが、1級となるとやっぱりレベルが高くて取れない。で、僕は1級を取りたいというのがありました。あと、JICAがやっている日系の人向けの研修とか、沖縄県がやっているジュニアスタディっていうイベントにも、その頃友達が行きはじめてたんです。それを見て自分も行きたいって思ってたんですけど、母親が短い期間の研修にはあまり前向きじゃなくて、「行くなら最低半年とかにしなさい」って言われて。長期間の研修に参加するには日本語能力試験の結果が大事だって聞いたので、1級を取ろうって思ってました。

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そのJICAの研修はどんなものなんですか。

JICA横浜で南米や中米の日系人が集まって日本のことを勉強したり、日本の学校体験をしたりするみたいです。同級生が参加していて、すごく楽しそうだったので僕も参加したかったんです。でも、日本に行きたいっていうのが一番ですかね。憧れが大きかったです。母方の親戚はみんな日本で生まれてて、僕だけボリビアで生まれて日本に行ったことがなかったんです。なので、日本に憧れがあって、行きたいなって思ってました。

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それで日本語能力試験の1級には合格したんですか。

結局、中学在学時には取れませんでした。中学2年生で1回受けて、惜しいところで落ちて。次の年に勉強して自信があったんですけど、ちょうど大統領選挙と重なってボリビアでは試験がなくちゃって受けられなかったんです。それが心残りでした。

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あえて日系の同級生がいない高校にー周りに知り合いがいると甘えるんじゃないか

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その後はもう日本語能力試験は受けなかったんですか。

高校から僕はあえて周りに日系人の先輩も同級生もいない現地の高校に行ったので、日本語離れじゃないですけど、日本語に触れ合う機会が少なくなったので……。あと、1級がN1に変わって、なんかかっこ悪いなみたいな感じがしてて、受けませんでした。

で、高校最後の年にやっと取っとこうかって思って受けて、中学時代よりずっといい点数でN1に合格しました。でも、僕の周りには1級に落ちてN1に合格している人がたくさんいるんです。みんな口をそろえて言うのは、N1のほうが簡単だったって。だから受かったのは嬉しいんですけど、ちょっとなにか足りないなみたいな。せっかくなら昔の1級で合格したかったなっていうのはあったんですけど。

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ちょうどN1に変わった頃だったんですね。高校は日系の人がいない学校に進んだということですが、点数は中学生のときより良かったんですね。

僕はアニメはあんまり見なくて、どちらかというと漫画派なので、そこが良かったのかもしれません。漫画を読むことで漢字も勉強できるじゃないですか。親戚のおばさんも、「難しい本じゃなくていいから漫画を読みなさい」って言うんで。そのおばさんは日本で出稼ぎしてた息子から漫画がいっぱい届いてたんで、よく貸してくれてたんです。漫画を読み続けたおかげで、あまり日本語を忘れずにいられたのかもしれないです。

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特に好きな漫画ってありましたか。

『RAVE』っていう、『FAIRY TAIL』を描いている作者の、その前の作品とか。あとは何があったかな。『NARUTO』とか『ONE PIECE』とかは当時からありましたね。今でも漫画喫茶にたまに行って読んだりもします。

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楽しみながら日本語に触れ続けていたんですね。ところで、高校はあえて日系の人がいない学校に行ったのは、何か理由があったんですか。

みんな基本的に先輩とか親戚とかきょうだいがいる高校にそのまま行くんです。僕は兄がいるんですけど、だいぶ年も離れてるので、そういったのはありませんでした。それに、周りに知り合いがいると甘えるんじゃないかっていう考えがあって、それはちょっとやりたくないと思って。スペイン語も勉強したいっていう意味も込めて、あえて違う高校に行きました。一番の理由に家の近くがいいっていうのもあったんですけど、近くに結構いい感じの学校があったので、そこにしました。

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知り合いがいると甘えるっていうのは、どういうことですか。

日系の同級生としかつるまなくなって、現地の子と知り合いにくいっていうイメージがありました。あと、スペイン語を勉強したかったというのは、ボリビアで暮らしていくからにはスペイン語をもっと勉強しないとっていう気持ちがありました。もうちょっとスペイン語だけの生活をしてみようかなって。結局、高校の4年間は移住地にあまり帰らないで、現地の人と野球やったりしてたので、スペイン語はけっこう上達したと思います。今は日本で生活してるので8:2ぐらいで日本語のほうが強くて、スペイン語の語彙力が乏しくなってきてるんですけど。

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日本に行ける機会を探すー沖縄に行きたい

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中学生のときは日本に憧れがあったということでしたが、そういう気持ちが高校に入るときはあまりなくなっていたんですか。

当時、沖縄の現役教師が移住地の学校に2年間派遣される制度があって、中学校2年生と3年生のときに担任になったんです。その方がザ・熱血の先生で、すごい真面目な先生で。その先生の雰囲気と、悪いことやるのがかっこいいっていう自分の思春期が重なって、日本語を勉強するのは嫌じゃなかったんですけど、なんか反抗しないとみたいな、そんな感じだったんです。先生が「日本人としてこうしなさい」みたいな感じだったので、自分は「先生、ここ日本じゃなくてボリビアだから」って言い訳をしてました。自分の祖父母が沖縄のどこ出身かとか、自分のルーツを勉強する移民学習の機会もあったんですけど、あんまり心に入ってこないっていうか。周りが日本に行ってるのに自分は行かせてもらえないっていうフラストレーションもあって、「もういいや」って中学校を卒業するちょっと前ぐらいから思い始めたんです。この学校をはやく卒業したい、はやく街の学校に行きたいと。それで、あえてみんなから離れました。

高校に入ってからも、最初の2年ぐらいはそんな感じでした。でも、高校の4年目、最後の年が特にそうだったんですが、先生の言ってた意味がわかってきて「もったいないことしたな、もうちょっと先生からいろんな話も聞けたのかな」と思い始めたんです。でも、そう簡単にボリビアから日本には行けないので、どこかで行ける機会がないかな、留学とかできないかなって探し始めました。それで、日本語能力試験をもう一回受け直そうと思ってN1を受けて、高校でできる準備をしました。

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中学生のときは反抗していたけど、後になって先生が言ってたことを思い出したんですね。何か思い出すきっかけがあったんですか。

4歳とか5歳とかのとき、日本語を覚えたての僕に曾祖母が戦争の話をよくしてくれてたんです。家の庭に2人で座って、ずっと。そのときは沖縄はよくない場所なんだって思ってたんですけど、『ちゅらさん』っていうNHKの朝ドラを見て、180度イメージが変わって、そこから憧れを持つようになりました。海とか沖縄風の家とかの話は曾祖母の話では聞けなかったんですけど、『ちゅらさん』で見て、いいイメージに変わりました。中学時代に反抗して、憧れはいったんなくなってたんですけど、高校3、4年生のとき、ふとした瞬間に「曾祖母と話してることも当り前じゃないんだ」って気づいて、曾祖母が生まれた場所ってどんなところだったんだろう、行ってみたいって思うようになりました。日本っていうよりは、沖縄に行きたいって。

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専門学校在学中に沖縄に留学する―こんなちっちゃい場所からボリビアに移民していったっていうのが感慨深かった

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高校を卒業した後は料理の専門学校に入ったんですけど、在学中に沖縄に1年間の県費留学をしました。県費留学の募集要綱が各家庭に届いて、迷わず「行きたい」って親に許可もらって。この留学制度のことは高校最後の年には知ってたんですが、高校卒業認定証が必要だったので一度あきらめて、次の年は専門学校在学中でしたが休学して沖縄に行きました。

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やっと沖縄に行けたんですね。

最初は那覇に到着したので、思ったより都会だなっていうのが正直な感想でした。「おじいさん、おばあさんはどこの人なの」と聞かれて「どこどこです」って話したりしていたら、今もお世話になっている友人がいるんですけど、その人がルーツの場所に連れて行ってくれました。戦争の話を聞かせてくれてた曾祖母の出身のところに。そこは沖縄の北部の山の中で、本当に何もない所で小さな部落でした。それを見たときには感動もありましたけど、こんな所っていったら失礼ですけど、ここから戦争を経験して、こんなちっちゃい場所からボリビアに移民していったっていうのが感慨深かったです。

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私は想像することしかできませんけど、きっと感じるところが大きかったんでしょうね。留学中は普段どんな生活をしていたんですか。

県費留学は、大学に行くコース、大学と企業半々のコース、沖縄料理や紅型(びんがた)っていう染物や三線作りなどの伝統芸能のコースという、3つのコースがありました。僕は調理師の専門学校に行ってたので、沖縄料理のコースに決めました。それで、沖縄料理をメインに教えている料理教室でお世話になって、琉球料理の第一人者の方のところで勉強させていただきました。先生が行く料理教室とかのイベントごとについて行って大御所先生方と交流させていただいたり、いろいろな経験をさせていただきました。

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専門学校卒業後、再び沖縄へ―どんな料理も1年だけ習って終わるっていうのはちょっと物足りない

1年の留学が終わった後はボリビアの専門学校に戻ったんですけど、また留学しようと思って、いろいろ調べました。琉球料理もそうですけど、どんな料理も1年だけ習って終わるっていうのはちょっと物足りないので、どうにかまた日本に行くことはできないかって。それで別の留学制度を見つけました。でも、とりあえず専門学校を卒業しようと思って、卒業するまで3年ぐらい我慢しました。

卒論を発表するだけになって卒業する目途が立ったときに、もう応募してもいいかなって応募しました。実は卒論を書きながら就職もしてたんですけど、留学に受かることができたので仕事も辞めて、また日本に来ることができました。

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それは琉球料理が勉強できる留学制度だったんですね。

はい。専門学校や大学、大学院も含めて、自分が行きたい場所どこにでも応募はできました。僕は最初の1年は東京で日本語学校に入りました。周りはネパールとかベトナムの方が多くて、そういった方々と1年間勉強して、その後は沖縄の調理師専門学校に入学しました。

今は専門学校を卒業して、沖縄で調理師として就職してます。今は日本もですけど、南米の情勢もあまりよくないので当分は日本で修行して、将来はボリビアで自分のお店が出せればと思っています。

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